『史記』の巻二・夏本紀によると、「帝桀の時、諸侯は多く夏にそむいた。桀王は徳に務めず、武力で百姓を傷つけ、百姓は苦しみに堪えかねていた。その頃桀王は湯を召して夏台に幽囚し、その後釈放した。湯は徳を修め、諸侯はことごとく湯に帰した。湯はついに兵を率いて夏桀を討伐した。桀は鳴条(安邑の西)に走り、ついに放逐されて死んだ。」とあります。これまでの禅譲に代わって“放伐”と呼ばれる、武力による易姓革命がここに始まることとなりました。
易姓革命
中国の政治思想。易姓とは、ある姓の天子が別の姓の天子にとって代わられることで、革命とは、天命があらたまり代わって、王朝が交替すること。つまり、中国には、天が命を下して徳のある者を天子となし人民を治めさせ、徳が衰えたりなくなって人民の信頼がなくなれば、天変地異などをおこしその天子や王朝を去らせ、新しい有徳者に王朝を開かせ人民を支配させるという政治思想がある。
『孟子』には、天子が位を世襲せず有徳者に譲る禅譲という革命(堯から舜ヘ、舜から禹へ)と、徳をなくし人心の離反した天子を武力で打ち滅ぼす放伐という革命(夏の桀王が殷の湯王によって討伐追放された)が書かれており、孟子のころにこの革命の政治思想が成立したと考えられる。孟子の易姓革命論は、「中華の王は天が選ぶ、しかし天が直接何らかの方法でそれを伝えるわけではない。誰かが王となることに対して百姓(民衆)がそれを受け入れて、政治がうまくいき、自然現象が順調に回る。これが王が天によって選ばれたことの証明となる。」「徳を失った王は、既に資格を失っている。その王は湯武が桀紂を放伐したように打倒して良い。」というもの。
易姓革命論は、放伐によって成立した王朝にとって都合がいいこともあり、中国に広く受け入れられた。また新王朝は、前王朝が天命を失ったことを証明することが必要になるため、前王朝の歴史編纂は、新王朝の重要な仕事となった。
商王朝の版図
考古学的発見
1899年、当時国士監祭酒として北京にいた王懿栄のところに寄宿していた劉鶚は王懿栄がマラリアの特効薬として常用していた竜骨に文字らしいものが刻まれているのを発見し、調べた結果これまでに知られている文字よりも古く、殷代に行われた卜辞と推察しました。その後劉鶚はこの竜骨が河南省安陽県付近の農地から出ることをつきとめ、収集し研究を始めます。これがきっかけとなって多くの学者が研究に参加、殷代の卜占につかわれた文字・卜辞だと判りました。1929年からは中国政府も本格的な学術調査を始め、現在も続けられています。これまでに見つかっている甲骨片は約10万点に達しています。
これら殷墟を始めとする遺跡の調査と夏商周断代工程(『夏商周の時代区分に関するプロジェクト』)によって明らかになった事実は、次のとおりです。
商王朝はB.C.1700年ごろ、湯王に率いられて河南省の黄河流域に成立し、周辺の小勢力を支配下におさめ大国化していきました。
初期の都は洛陽の東、偃師県二里頭にあった亳(はく)で、その後西亳(せいはく)に遷都し、これが偃師商城の城郭遺跡ではないかと言われています。偃師商城は河南省偃師市南方3kmにある商王朝(B.C.16世紀~B.C.11世紀頃)初期の遺跡です。河南省安陽県にある商王朝後期の殷墟(いんきょ)よりもさらに古く、中国で最古の都城跡と考えられています。南北1700m、東西1200mの規模で、外城、内城、宮城の三重の城壁で囲まれ、七か所の城門があり、内側には宮殿跡も確認されました。
20代・盤庚から31代・帝辛までの間(B.C.1300~B.C.1046)は、殷墟(河南省安陽県小屯)に定着したと考えられています。ただ、殷墟は宗廟あるいは墓地が設けられた場所で、都自体は現在は未発見ですがその近隣にあったと考えられています。
商部族(仮の呼び名)は、もともと東方系の一部族でしたが、定住農耕によって勢力を充実し、中原に進出して他民族を服属させていきました。服属させる際には奴隷とせず、開拓入植させる“作邑”と呼ばれる方法を採用しました。その後西方系の彩陶文化と接触、先進の夏王朝系の部族と対峙しつつ勢力を拡大し、夏王朝を打倒しました。
国家体制は大邑、族邑、属邑(小邑)が結びついた連合体で、邑というのは四方を壁で囲んだ居住地という意味です。
族邑は血族集団を基礎とする小型の国家で、多数の小邑が属していました。湖北省黄陂の盤竜城遺跡では、族邑の規模は南北290m、東西260m、周囲には1100mの城壁があり、住居は半地下式の竪穴住居、小邑は近くに点在し、粟作を中心とする農作が行われていて、人口数十人程度の小集落だったことがわかっています。
大邑は王城で、安陽県ではまだ発見されていませんが、商代中期の王城とされる鄭州王城は、南に1750m、東1725m、北1720m、西2000m、高さは10m、幅は底部が36m、頭部が5mの城壁で囲まれていて、版築という工法で造られています。大邑内部には祭祀を行う祭壇、骨角器や陶器をつくる作業場、酒造工場、青銅器の鋳造所などがあります。
卜辞解読から見る商王朝
甲骨文字の解読を通じて、『史記』殷本紀の記述も正確性が確認されました。
商王朝は祭政一致国家で、人々の行動はすべて神の指図を受け、神意を伺うために盛んに卜占が行われていました。卜占は動物の肩甲骨や亀の甲羅に卜占の内容を刻んで、裏側を火に押し付けて表面にできる割れ目で吉凶を判断するものです。
卜辞は祭祀に関するものが最も多く、ついで狩猟、王の旅行、饗宴、農耕、風雨などがありました。祭祀(天帝の末裔である祖先神の祭り)は王にとって最も重要な国事行為でした。狩猟は当時の重要な生産手段であり、農耕も重要な産業だったことがわかります。当時の華北地方は現在よりも温暖多雨で、象や犀、水牛が生息していた形跡があります。また、主要な作物は黍、麦、稲などでした。鍬を使用し、耕作には牛を利用し、灌漑や肥料の使い方などの知識も持っていました。
彼らはまた、太陽崇拝を行っており、太陽は10個あり、それが毎日1つずつ交代で天に現れ、10日で一巡すると考えていました。そのため王の死後は太陽の名前に基づいて、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸をつけた諡をつけました。
青銅器と文字の発達
商代の一大成果といえるものに青銅器の製作があります。
中国では商代初期に石器時代から金属器時代へと移行したと考えられ、商代を通じて青銅器は高度の発達を遂げました。商代後期には大型で複雑な模様がある祭器や、大量の武器・武具が作られました。次の周代でも青銅器は製作されていますが、技術的には商代のほうがはるかに高度です。また、玉製品や象牙製品でも優れた技法による工芸品が数多く作られ、陶器や漆器の技術も高いものがあります。
文字は3000字近い甲骨文字が発見されていて、解読されているのは800字ほどです。当時は文字は天意をうかがうための神聖なもので、一般の生活には無関係でした。
商王朝の滅亡
『史記』殷本紀には、第31代帝辛・紂王は天性能弁で行動は敏捷、智慧は諌言を退け、口舌は非を飾るに足り、臣下に自分の能力を誇り、天下に名声を高ぶり自分の上に出るものはないと思っていた、と書かれています。酒を好んで淫楽にふけり(いわゆる酒池肉林)、愛姫・妲己の言うままに重い賦税や厳しい刑罰を課すなど悪業の限りをつくした稀代の暴君と書かれています。
周の武王が西方の諸侯を集め、安陽の南の牧野で決戦を繰り広げ、商の大軍を撃破しました。これが『殷周革命』で、1046年のことです。
歴代皇帝
商前期
初代:湯(B.C.1600~)- 2:太丁- 3:外丙- 4:中壬 -5:太甲- 6:沃丁- 7:太庚- 8:小甲 -9:雍己- 10:太戊- 11:中丁 -12:外壬 -13:河亶甲- 14:祖乙 -15:祖辛- 16:沃甲- 17:祖丁- 18:南庚 -19:陽甲
遷都・商後期
20:盘庚(B.C.1300~)- 21:小辛(在位50年)-22:小乙(B.C.1251) -23:武丁(B.C.1250~B.C.1192)-24:祖庚(B.C.1191)-25:祖甲-26:廪辛(在位44年) -27:康丁(B.C.1148~) -28:武乙(B.C.1147~B.C.1113) -29:文丁(B.C.1112~B.C.1102) -30:帝乙(B.C.1101~B.C.1076) -31:帝辛(紂)(B.C.1075~B.C.1046)
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これが十干の起源になるのかな?「彼らはまた、太陽崇拝を行っており、太陽は10個あり、それが毎日1つずつ交代で天に現れ、10日で一巡すると考えていました。そのため王の死後は太陽の名前に基づいて、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸をつけた諡をつけました。」
通説ではこれが十干の起源みたいですね。