西晋(265年~316年)
西晋の初代皇帝:武帝【魏の権臣・司馬懿(しばい。司馬仲達。ちゅうたつ。179-251)の孫にあたる】が、265年洛陽を都として建国した。
268年、唐代の律令の基礎となる律20編、令40編の律令制度を作り上げ、占田課田法(土地の一定の占有を認め課税し、公有地も一定面積を割当て課税する)法を布いた。
280年には呉の首都建業(けんぎょう。現・南京)を陥落させ、呉を滅ぼし、中国統一を達成。
武帝の息子・恵帝の代で、外戚の賈氏一族や封国の諸王が権力争いを繰広げた。これを八王の乱と呼ぶ。この機に乗じて匈奴の貴族・劉淵が反旗を翻し、316年洛陽・長安を占領して西晋を倒す。
西晋時代は、西部と北部の辺境地域を匈奴、鮮卑、羯、氐、羌のいわゆる五胡が支配しており、それら部族が次第に内遷し、現在の甘粛省、陜西省、山西省、河北省、遼寧省の長城以南の広大な地域を支配するまでになった。
東晋(317年~420年)
西晋の宋室の瑯邪王司馬睿は華北を逃れて建業にいたが、洛陽・長安両都の陥落を知ると即座に即位し、これより東晋王朝が成立し五胡十六国・南北朝時代へと突入する。
東晋時代、華北では五胡の国家群が興亡し、これを五胡十六国【成漢、夏、二趙(前・後)、三秦(前・後・西)、四燕(前・後・南・北)、五涼(前・後・南・北・西)】時代と呼ぶ。
383年、東晋は謝玄率いる8万の軍勢で、南下してきた前秦の符堅の100万の大軍を淝水の戦いで破り黄河以南の失地を回復した。その後東晋は謝玄による寛和の政によって一時は国力を富強させる。
東晋末には、孫恩による民衆反乱が起こるが、北府隊長の劉裕が撃退する。劉裕はその後洛陽、長安を奪回し人心を集め、420年、皇帝の荒淫生活により政治が乱れた東晋最後の恭帝に迫って帝位を奪い劉宋を建国、武帝を称する。