趙匡胤(太祖)が配下の将軍に推されて帝位についた。都の開封に戻った趙匡胤は、将兵に略奪や民を傷つけることを禁じた。後に趙匡胤は銘文を石碑に刻ませ、帝位を継ぐ際にこの石碑の前に膝まづいて銘文を読むように命じている。
1.後周の帝室である柴一族ならびにその子孫を保護すること。
2.官吏と学者を処刑してはならない。
3.農地の税をあげてはならず、宋王朝が続く限り、役人は武器を持って戦ってはならない。
帝位についた趙匡胤は、配下の将軍たちに酒と料理を振舞った後、多額の年金を保証する代わりに自発的に引退するよう説得した。軍の反逆の目をつむために。この見事な先手で、それまで200年続いた地方軍閥の勢力がそがれ、科挙試験に合格した文人官僚(士大夫)が政治の中心となり、宋は平穏に国内を統治できた。
第2代皇帝の趙匡義(太宗)の時代には、銀貨から紙幣の使用が盛んになった。貨幣経済、すなわち流通経済が活発になると共に、広範な地域を結ぶ交通網が必要になり、黄河や長江を南北に結ぶ大運河が開通した。
第3代皇帝の趙徳昌(真宗)の時代1004年に、遼に侵攻された。宮廷はまず南京へ、さらに成都へと逃げたが、防戦のために黄河まで進軍し、澶州(せんしゅう、現在の河北省濮陽県南西)で対陣したが、遼の皇帝・聖宗と「澶淵の盟」といわれる講和条約を結んだ。盟約自体は宋にとって屈辱的な内容だったが、国境周辺の交易が活発になり、経済的には繁栄した。
この頃の宋は、灌漑設備の完備や、インドシナ半島から早稲を取り寄せて、在来の晩稲と併せて二毛作ができるようになった。そのため生活水準が上がり、人口も急増し、1020年には登録されていた戸数が9700万になった。1040年には畢昇が活版印刷を考案した。
宋はその後1044年に北西に隣接する西夏(チベット系タングート族)と「澶淵の盟」と同様の盟約を結んだ。
いずれも条件付きの和平だったため、大規模な国軍を維持するための軍事費がかさみ、宋の財力は次第に磨り減っていく。
そのような中、有力な政治家だった王安石が、土地税制の抜本的改革を行い、15年で懸案の財政問題が一応解決した。
この時代、宋では羅針盤とそろばんが発明され、1090年には開封に天文時計台が建設された。
この頃、中国東北地方の奥地にいたツングース系の女真族が強大となり、その首長である完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)が遼に反旗を翻し、1115年に金を建国、次第に遼を圧迫して1125年にこれを滅ぼした。
宋は金と同盟を結び宿敵である遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州の奪還を図ろうとしたが、かえって金の華北侵入を招き、金軍は1127年、徽宗(第8代皇帝)・欽宗(第9代皇帝)・后妃・皇族・官僚・技術者など数千人を捕虜として東北地方の奥地(現在の黒竜江省の依蘭付近)に連れ去った。この出来事を「靖康の変」と呼び、これによって北宋は滅亡した。