中国三大石窟の一つで当時の仏教芸術の集大成と言える遺跡です。
西暦366年鳴沙山の東の断崖に、僧・沙門楽尊が夕日を浴びて輝く千仏の威厳を感じ石窟を築き、修業したのが始まりとされています。その後、元代にいたる約1000年間、石窟は掘り続けられ、約1000の石窟があったとされていますが、現在は492の石窟が保存されています。
1899年に第17窟から、六朝から北宋時代の古文書類、経典写本、図画などが大量に発見されました。現在までに2400体以上の塑像と合計4500㎡の壁画が発見されています。
古い時代の石窟は中心部にあり、両端部に新しい石窟が集中しています。
どの窟も、正面奥の須弥檀(しゅみだん)の上に塑像が並び、四面の壁面は壁画で埋められています。
造られた時代によって、窟の構造・仏像の顔やポーズ・壁画のテーマはそれぞれ違っています。
壁画の内容を大きく分けると仏僧画、仏の生涯を伝える絵、伝統的な神話・伝説の内容を絵にしたもの、経変画、仏教史跡画、装飾図案、供養者の7種類があります。
敦煌の名が初めて史上に登場するのは、漢の武帝が河西4郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)を設けた、紀元前111年のことです。
当時の敦煌は軍事基地でしたが、漢の西域経営が本格的になり、西域に都護府が置かれるようになると、東西交渉の中継基地として発達し始めました。
敦煌文化は中国西北部の各民族文化が融合したもので、その中心となる中原の漢文化の儒家思想と道家思想をもとにして、西域近隣民族、中央アジア各国、インド、ペルシアの言語、文学、宗教、哲学、芸術の優れた要素を、大胆に吸収・融合し、さらにギリシアやローマ文化の影響も受けています。